岡山地方裁判所 昭和30年(タ)3号 判決 1959年9月14日
原告 尾崎茂
岡山地方検察庁検事正
被告 米田之雄
右当事者間の昭和三〇年(タ)第三号隠居無効確認事件につき当裁判所は、昭和三四年三月六日終結した口頭弁論に基き、次のとおり判決する。
主文
原告が昭和十九年十月十一日岡山県児島郡郷内村長に対する届出によりなした隠居は無効であることを確定する。訴訟費用は国庫の負担とする。
事実
原告訴訟代理人は、主文同旨の判決を求め、その請求原因として、
「原告は戸籍上昭和十九年十月十一日児島郡郷内村長に対する届出によつて隠居したことになつている。しかし原告は全然隠居したことはなく右の戸籍上の記載があることを昭和二十五年三月十日頃始めて知つた。そして右隠居の届出は何人かが原告の印章を偽造してこれをなしたものであつて原告の意思によるものではなく、無効である。なお戸籍簿上は原告の隠居に先立ち尾崎又吉が昭和十九年十月五日原告の指定家督相続人として指定された旨の記載があるが、これも原告の全く聞知しないところである。しかして、右又吉は昭和二十五年二月一日死亡しているので、被告検事正を相手として右隠居の無効確認を求めるため本訴請求に及んだ」
と述べ、
証拠として、甲第一ないし第六号証、第七号証の一、二を提出し、甲第一、二号証は隠居届が原告の意思によらないで作成されたことを証する書面であると述べ、証人尾島直市(第一、二回)同尾崎仁次郎(第一、二回)、同尾崎熊男、同上田健児(第一、二、三回)、同三沢定夫、同鈴井カメヨ(第二回)、同上田穂積、同武井豊子、同富谷乙江の各証言、原告本人尋問の結果(第一、二、三回)を援用し、乙号各証の成立を認めた。
被告は適式の呼出を受けながら本件口頭弁論期日に出頭せず、答弁書その他の準備書面をも提出しなかつた。
被告補助参加人等の訴訟代理人は、補助参加人尾崎栄一、尾崎太賀一および原告は、亡尾崎又吉の子であるが、原告は、昭和十八年夏頃都窪郡茶屋町被告太賀一方で父又吉に対し隠居する旨を明言しその手続一切を同人に委せ、昭和十九年十月五日原告の指定相続人として右又吉を指定する旨の届出を郷内村長に対してなし、同年十月十一日同村長に対して隠居届出をして隠居をしたもので、その届出も原告の意思に基いてその承諾を得て作成提出されたのであるから偽造ではなく、原告の隠居は有効である。又吉は昭和二十五年二月一日死亡したが、原告が同年三月十日頃右隠居届のあつた事実を知つたとの点は否認する。と述べ証拠として、乙第一ないし第五号証を提出し、証人鈴井カメヨ(第一回)、同片山安野(第一、二回)、同尾崎寿子、同尾崎栄一(第一、二回)、同尾崎太賀一(第一、二回)の各証言を援用し、乙第一ないし第五号証を提出し、甲第一、二号証はいずれも原告の意思に基き作成されたものである、甲第六号証の成立は知らない、その他の甲号各証の成立を認めると述べた。
理由
公文書であるから真正に成立を認める甲第三号証(尾崎茂戸籍謄本)乙第四号証(尾崎悦吉除籍謄本)によれば、本籍岡山県児島郡郷内村大字木見一、三一五番地戸主尾崎茂が昭和十九年十月十一日郷内村長に対する届出によつて隠居した旨の記載が存することが明らかである。
原告は、右隠居は原告の意思に基かないで、何人かの偽造による届出によつてなされたものであるから無効であると主張するので、以下この点について判断する。
一、先ず原告の被告補助参加人等に対する身分関係ないし生活関係について概略の考察をしておく。
公文書であつて真正に成立を認める甲第四号証、前掲甲第三号証、乙第三号証、証人尾崎仁次郎(第一回)、同尾崎直市(第一回)、同尾崎態男、同三沢定夫の各証言、原告本人尋問(第一、二、三回)の結果を綜合すれば、次の事実が認められる。
(一) 原告の実父は亡尾崎又吉(本籍、岡山県都窪郡茶屋町大字帯江新田百六十九番の内第三地)であるが、又吉の亡父尾崎市五郎には、久吉、悦吉、又吉の三男があり、悦吉は分家して岡山県児島郡郷内村大字木見一、三一五番地に本籍を置き、実際は本家の後継者となつていた。また尾崎又吉には、その妻柳との間に男女六人の子があり、年令順にいうと片山登茂子、片山安野、補助参加人尾崎栄一、鈴井万寿次、原告、補助参加人尾崎太賀一であり、長女の登茂子、万寿次は既に死亡している。尾崎又吉(明治二年五月二十四日生)は戸籍上は大正十三年二月十四日隠居して、同日補助参加人尾崎栄一(明治三十三年一月一日生)が家督相続をし、補助参加人太賀一(明治四十一年九月二十日生)は、悦吉とその妻秀と養子縁組をしたが、大正十二年十二月一日協議離縁をしており、万寿次(明治三十六年十二月二十六日生)は昭和四年一月九日、鈴井慎太郎二女カメヨと婿養子縁組をした。
(二) 他方尾崎悦吉は、その妻秀との間に子がなく、妻秀も昭和七年七月十六日死亡したので、原告を養女にして家を継がせたいと思い、親族の尾崎仁次郎にその世話を依頼し、同人の世話で又吉と交渉のうえ、昭和八年五月二日原告は尾崎悦吉と養子縁組をし、又吉の希望があつて、悦吉は同日隠居して、原告が家督相続をし戸主となつた。
(三) 原告が悦吉家の養子になつた頃は、二十五六才で福田村の実科女学校家庭科に勤務しており、実家である都窪郡茶屋町の又吉方から通勤し、悦吉と同居生活をしたことはなかつた。原告はその後岡山県下で小学校の裁縫の教員をし、ついで佐世保高等女学校教諭となつて郷里を離れた。悦吉は昭和十五年九月二十五日死亡したので、原告は佐世保より帰省し、喪主として葬式をすませ、再び佐世保に帰つた。悦吉の死後郷内村木見の家屋には、又吉の妻柳が昭和二十一年頃又吉と柳が、それぞれ留守番として入り、近所づきあいも少く、戸も閉まつていることが多い位であつた。なお悦吉には田畑があつたが、殆んど小作させていた。
二、次に、原告は、昭和十九年十一月頃またはそれ以前に隠居の意思は全然なかつたと主張するのに対し、補助参加人等は、昭和十八年夏頃原告が又吉に対し隠居の意思を表明してその手続一切を委せたと主張するので、この事実の有無について検討する。原告本人尋問の結果(第二回)により真正に成立を認める甲第六号証、乙第一号証、公文書であつて真正に成立したと認めうる乙第二号証、証人尾崎直市(第一、二回)、同尾崎仁次郎(第一、二回)、同上田健児(第一、二、三回)、同上田穂積、同武井豊子、同富谷乙江、同尾崎熊男、同三沢定夫の各証書ならびに原告本人尋問の結果(第一、二、三回)を綜合すると、
(一) 原告は佐世保高等女学校に勤務中同校の教諭であつた訴外上田健児と相知り昭和十六年夏頃事実上の夫婦関係を結び同居したが、同年十月原告は、和歌山県女子師範学校教諭に任ぜられ、単身和歌山に赴任し、上田健児は昭和十八年四月和歌山県立日方中学校に転任してきたので、海南市で同棲生活を送つていた。原告は昭和十六年十二月和歌山県女子師範学校旧監を、昭和十八年四月一日和歌山師範学校女子部寮監を命ぜられた。上田には先妻の子、耕次、穂積、豊子があり、上田と原告との間には昭和二十年五月十六日に長男良穂、昭和二十二年三月三日に次男富穂の二児が生まれた。
(二) 原告は和歌山に転任して後(イ)昭和十六年頃補助参加人太賀一の出征により帰省するよう電報を受取り、茶屋町に帰つた。なお前掲証拠中原告本人の第一、二回の供述と証人尾崎太賀一の第三回、尾崎栄一の第一回の各証言を綜合すれば、栄一は又吉と仲違いをして昭和十一年家出をし昭和十六年頃まで絶交状態にあつたことが認められ、太賀一の出征にさいし栄一は茶屋町に来会していなかつたことが認められる。(ロ)次に原告の兄鈴井満寿次が死亡した時その死亡の時機は証人鈴井カメヨの第一回証言によると昭和十九年六月であると認められる、原告と上田健児は和歌山から岡山市の京橋を経て満寿次の住所である香川県小豆郡内海町草壁に葬式参列のため赴き、郷内村の木見や都窪茶屋町の太賀一方にも立寄らず、小豆島から直接岡山市京僑を経て、和歌山に帰宅した。(ハ)原告は昭和二十年頃原告の最初の子良穂の生れる五月位前郷内村木見に帰り、しばらくの間倉敷の中央病院に通つた。(ニ)終戦になつて昭和二十一年八月頃原告は上田の子豊子と長男良穂をつれて木見に半月位帰つた。
それ以外に昭和二十五年二月又吉が死亡するまで原告は帰省したことはなく、右(イ)(ハ)(ニ)の三回の帰省に際し、又吉から、原告の穏居のこと、または悦吉家の相続問題について、意見を求められたり相談を持ちかけられたことはなかつた。
(三) 昭和二十五年二月一日又吉が死亡し、補助参加人太賀一からの通知で原告は和歌山から富穂を連れて木見に帰つたが葬式には間に合わなかつた。しかし、その直後葬式の後始末で補助参加人栄一、太賀一、親戚の尾崎仁次郎、尾崎直市(前記又吉の子)が集つていて、又吉の死亡による相続の問題が起り、その頃、原告は始めて自己の穏居届出がなされていたことを確認し、右兄や親戚の者と協議した結果、悦吉の財産は又吉が相続しているから、又吉の遺産相続人が均分相続すべきであるが、法律上は又吉の相続人としては三月以上同居していた妻柳のほか資格はないから、ひとまず柳名義にして相続するほかなく、原告はその後に柳から相続を受けて木見の本家を維持するようにした方が不在地主として農地を取上げられなくてすむという補助参加人太賀一の提言があつたので、原告もこれに同意し、同年四月十日付書面で、原告、補助参加人太賀一、栄一等を含めて又吉の遺産相続人等が、母柳に財産を集約しておくため相続放棄の申述書(乙第一号証に該当する)を作成し、同年八月一日岡山家庭裁判所において相続放棄の申述を受理する旨の審判がなされた。
(四) 原告は昭和二十五年四月頃から郷内村木見の悦吉の残した家屋に入居し、母柳と生活していたが、前記約定どおり柳が相続したことにした財産を原告に相続して移すため、親戚の尾崎直市に依頼して補助参加人太賀一、栄一等に交渉したけれども、同人等は言を左右にして応ぜず、また昭和二十七年二月頃母柳が死亡した後、母柳が相続した前記財産を原告、太賀一、栄一の三人の共有にしようとする動きを察知した原告は、太賀一に対し約束が違うといつて責めたところ、太賀一は、原告に対し、夫の上田が勝手に財産を処分することがないよう三人共有にしておいた方がよいといつて、原告の要求を抑え、原告もやむなく太賀一の言を信じ、かつ、悦吉から家督相続によつて承継した田畑は登記上原告名義のままになつていたので安心していたところ、昭和二十九年になつて補助参賀人両名は原告を相手として岡山家庭裁判所に遺産分割の調停を申立てるにいたつた。
(五) 尾崎仁次郎、尾崎直市等は又吉と親戚であり、仁次郎は原告と悦吉の養子縁組に仲介の労をとり、直市は又吉からも相談をもちかけられるような間柄であつたのに、原告が昭和十九年隠居して又吉が家督相続人に指定されたというような事実については、何らの相談も受けたことはなく、又吉が昭和二十五年二月死亡して、その後始末の時にはじめて補助参加人両名からそのような事実があつたことを聞いた。
(六) 又吉は昭和十九年十月頃かねて知り合いの司法書士尾崎熊男に原告を隠居させるのだが家を絶やさないために又吉を家督相続人に指定する等の手続上の相談をしたことがあつたが、従前原告の養子縁組、悦吉の隠居、家督相続による原告のための不動産登記手続等を尾崎熊男に委任したことがあつたのに、原告の隠居については、その書類の作成を尾崎熊男に依頼しないで当時役場に勤務していた者に頼んで、原告名義の家督相続人指定届(甲第二号証)、隠居届(甲第一号証)を作成し、郷内村長に届出をした。
以上のような諸事実が認められるのであつて、右認定を動かすに足る証拠はない。しかして、前記一および二において認定した諸事実を綜合すれば昭和十九年十月十一日の原告名義による隠居届は、原告の意思に基かず、また同人の委託もないのに、その父又吉が無断で原告名義を冒用してなしたものと認めることができる。
三、ここで、補助参加人等の主張およびその援用する証拠につき、その信憑性を判断しておくことにする。
証人尾崎寿子(補助参賀人太賀一の妻)、同片山安野(又吉の二女)同尾崎栄一(補助参加人)(第一、二回)同尾崎太賀一(補助参加人)(第一、二外)の各証言において、同人等はひとしく、「原告が昭和十八年七月末か夏頃、和歌山から木見に帰つてきた際、茶屋町の太賀一宅で、太賀一、その妻、栄一、片山安野が集つた席上、又吉に対し、木見には帰る意思はないから、木見の家はお父さんのいいようにしてくれと明言した」旨供述している。また証人尾崎太賀一の証言(第一回)では、同人は、「木見に行つていた母柳が、原告が男を連れて木見に来ているといつて、当時茶屋町の太賀一宅に来ていた父又吉に報告して来たので、父は母に対し羽日原告を連れて来いと命じ、また太賀一に対しても兄弟全部を翌日茶屋町に来るよう連絡せよと命じた。そこで香川県小豆島にいる鈴井万寿次には、はがきを出し、栄一、片山安野には、太賀一が行つて連絡した」旨および「原告が又吉に対し木見の跡は、太賀一の子供にでもやつて、後をいいようにしてくれればよいと明言した」旨供述している。これに対し証人鈴井カメヨ(第一回)は、万寿次は昭和十九年六月死亡したが、その前年の昭和十八年十一月又吉から呼ばれて茶屋町に行つたが、その時は話の済んだ後で原告が木見を相続する意思はないから、後をよいようにしてくれたという話であつたと、万寿次から聞いた」旨証言している。
ところで昭和十八年七月末頃、原告が単身または上田健児と二人で和歌山から木見に来たかどうかについて考察するのに、前掲甲第六号証、証人上田健児(第一、二、三回)同上田豊子の各証言、原告本人尋問の結果(第一、二、三回)を綜合すると、昭和十八年七月頃原告は和歌山師範学校女子部寮監で三日に一度の割で寮に泊つており、同年四月上田健児は引越荷物の整理もつかないまま和歌山県立日方中学校に転任し、一家数人で海南市に居住していたことが認められ、かつ特別の用事でもないと、原告自身または上田と二人が木見に行くほどの余裕はなかつたものと推認されるのみならず、補助参加人等の授用する前掲各証言では、原告が木見に来たのは又吉が何かの用事で呼寄せたというのではなく、たまたま原告が上田と二人で木見に来たということになる。しかも、昭和十八年七月末日頃ということは、前掲証人等が強く供述しているのに、証人鈴井カメヨ(第一、二回)の証言では、「又吉から万寿次あて速達便のはがきが来て、茶屋町に出かけて行つたのは昭和十八年十一月頃でオーバーを着ていつた」というのであつて、その日時は単なる記憶違いではすまされない位はつきり述べている。もつとも証人尾崎太賀一の証言(第二、三回)では、太賀一は昭和十八年七月末頃普通便のはがきで万寿次あて通知したが、その時は来なかつた。しかし万寿次が又吉のところに来たのは昭和十八年十一月原告の隠居のことについて話をした旨供述しているが、同年七月末と十一月頃との間には、かなりの期間も経過しているし、又吉が速達で万寿次を呼寄せたことがあるのか、それが果して原告の隠居の相談事であつたのか、証人鈴井カメヨの証言(第一、二回)原告本人尋問の結果(第一回)を綜合して考えると、証人鈴井カメヨの証言もあいまいであり、たやすく信を措きがたく、補助参加人等の主張する昭和十八年七月末という日時もあいまいであるうえ、同人等の授用する証言では、原告の隠居という重大な身分上の事柄について、昭和十八年七月より前に原告に対し何らの交渉や相談もなく、極めて偶然の機会において、しかも急拠兄弟が集つて、原告の意思が表明されこれによつて事が決したということになる次第であつて、このような補助参加人等授用の証言内容は、原告の授用する証拠にてらして信用することができない。しかも昭和十八年七月末頃原告が隠居の意思を表明したと仮定しても、その届出が昭和十九年十月十一日まで延ばされた理由については、これを明らかにするに足る証拠は存しない。また公文書であつて真正に成立を認める乙第四、五号証によると、原告は昭和二十四年十一月十七日郷内村長に対し自己の戸籍抄本の下付請求をした事実、および同年十二月十七日海南市の上田健児方に寄留届出をした事実が認められる。ところでこの点について証人上田健児の証言(第三回)によると右抄本は上田健児が下付請求をしたことが認められるが、同証言において、戸籍抄本の下付を請求したのは、原告の二番目の子供が生まれて海南市の市役所に母方の寄留届をする必要があつたというのである。原告本人の供述(第二回)によると、原告の二番目の子は昭和二十三年三月二十一日生れであるので、証人上田健児の右証言部分には、たやすく措信しがたい節があり、原告の戸籍抄本を右日時に下付請求した理由が明らかでない。しかし、原告や上田等が昭和二十四年十一月頃原告の戸籍抄本を取り寄せることによつて、戸籍上の原告隠居の記載を見たであろうことを推論しうるとしても、証人上田健児の証言(第三回)原告本人尋問の結果(第二、三回)を綜合すれば、当時又吉は存命中であつて、原告は当時尾崎悦吉家のいわゆる当主であるという意識を持つていたことが推認されるので、原告がその頃又吉に対して隠居およびそれに伴い財産を失うことを認識して抗議しなかつた(当時原告が又吉にかような抗議をしていないことは弁論の全趣旨によつて認められる)としても、それが直ちに、原告が又吉の生前に隠居の事実を明確に認識していたとか、または進んで昭和十八年七月自ら隠居の意思を表明したことの証拠となすには足りず、そのほか、前記認定をくつがえし、補助参加人等の主張事実を肯認するに足る証拠はない。
四、右の次第であつて、原告の昭和十九年十月十一日付隠居届による隠居は無効であることが明らかであるから、右隠居に関する戸籍訂正の必要上、潜称指定家督相続人たる又吉の死亡後、検察官を相手方として右隠居の無効なることの確定を求める原告の本訴請求(家事審判法施行法第十三条参照)は正当としてこれを認容すべく、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八十九条人事訴訟手続法第十七条に則り主文のとおり判決する。
(裁判官 緒方節郎)